Saki Sntorelli博士インタビュー(by Amir Imani)

Massachusetts大学マインドフルネスセンターで、Jon Kabat Zinn博士とともにマインドフルネスストレス低減法(MBSR)に長きに渡り関わってきたSaki Sntorelli博士への、Amir Imani氏によるインタビューです。
※なお、下記はInternational Mindfulness Center Japan担当者が概訳したものであり、内容の詳細に不正確な部分があり得ることをあらかじめご了解の上、ご覧ください。

Amir:マインドフルネスの理解を深めることを目的としたこのウェビナーシリーズの3回目になりました。最初はJon Kabat-Zinn博士にマインドフルネスの基礎について一緒に考えていただきました(こちらより)。2回目はOxford大学でマインドフルエンス認知療法(MBCT)の実証研究をされているWillem Kukyen博士に、鬱に対するMBCTが如何に効果的かについてお話いただきました(こちらより)。そして、今日はとても親しい友人でありメンターでもある、Saki Sntorelli博士をお迎えすることができました。Sakiは17年にわたりアメリカMassachusetts大学のマインドフルネスセンターで所長を務められ、つい最近退任されたばかりです。私自身、彼が、マインドフルネスを世界中で一般の人々や専門家に紹介していくことに大変な貢献をされたことを間近で見てきました。私個人にとってもマインドフルネスに関わっていくことに大きな影響を与えた人の一人です。
それではSaki博士、よろしくお願いいたします。

Saki:ありがとうございます。今日はこうして皆さんとご一緒できてとても嬉しく思います。
まず、それぞれの持場で、皆さんが日頃から業務に取り組んでいらっしゃることに感謝の念を表明したいと思います。さて、それでは、これから一緒に過ごす時間、どういった意図で臨むかということから話すことにしたいと思いますがよろしいでしょうか。

ここに参加していらっしゃるのには、表面的な理由や、もっと深い理由、もっともっと深い理由など、様々あると思います。例えば、自分は専門家レベルとしてである、いう方もいらっしゃるかもしれません。それはよいことです。しかし、もっと深く、自分の心の中まで掘り下げてみるとどうでしょう。自分の生活の中の1時間という、他にもさまざまなことに使える貴重な時間を使って、あなたがこのセミナーに参加した本当の理由はなんでしょうか。
みなさん、様々な理由があってやってきますが、とても深い理由を持っている場合もあります。これは正式な調査をしたことはないのですが、例えば、私は37年間マインドフルネスセンターに在籍していて、ガンや心臓病を抱える方、その他の様々な医学的、心理的な問題を抱える人達とお会いしてきました。その人達は、それらの問題から生じる精神的、身体的苦しみから離れて癒しを得ようとしてやってきました。参加した理由について、最も多くみなさんが口にしたのは、心の平和を得たい、ということでした。
みなさん、身体的、精神的に苦しんでいる最中でさえ、自分の奥深くに何かがあるということがわかっていました。それは、自分が経験している症状とは全く違う何かです。そのようなことで、私は皆さんに、ご自分の意図を思い起こしたうえで参加してみてくださいとお願い、もしくはご提案をしています。

今この瞬間でさえ、私は、私達がこの場にいて、互いにとても親しい仲間であり、ある決意と献身的な気持ちを持ち、人間は実際にはある種の才能に満ち溢れているのだという人間観をもっているのだと感じています。人間には、自分が想像する、もしくは多くの文化が可能であるとみなす以上の能力があります。これは、あたかも、自分たちが宝物でありながら、宝物を忘れてしまっているようなものです。私の言うことがおわかりになるでしょうか?自分自身でも、すぐに忘れてしまいますよね?
ですから、私達マインドフルネスプログラムの先生の本当の仕事は、そのことを思い出すことだと言って良いでしょう。その思い出すということは、介入、ということよりもっと深いものです。実際のところ、私はMBSRを介入と呼ぶことが好きではありません。最初の頃から介入と呼ぶことは避けてきましたし、セラピーという言葉も同様です。むしろ、アプローチとか道という言い方をしてきました。
他の人の痛み、苦しみ、ストレスを扱っていくのであれば、まずは自分自身の痛み、苦しみ、ストレスをうまく取り扱うことを学ばなければなりません。その観点からすると、他者に対する介入というよりも、自分自身から生じてくるものと言えます。

自分自身を深く掘り下げていくこと。そうしてこそ、苦しみや困難を抱える他者と向き合うことができるのです。このことは、マインドフルネス認知療法(MBCT)やMBSRで中心的な能力とされているものが重要ではない、ということではありません。それらは重要なものです。同僚のRebecca CraneとMark Williamsが数年前にその能力について書いた論文を読んだ時、自らにこのようなことを問いかけました。「これらの能力はすべてMBSRの側面を表したものだろうか」と。私の回答はYes、でした。そして、もう一つの問いかけは、「これらの能力さえあれば、クラスに行って教えるのに十分だろうか」ということで、私の答えはNoでした。
そのことは、それらの能力が重要ではない、ということではなく、私の視点、経験から中心的な能力であると考えられるものは、人間としての心を養うことである、と言うことです。その能力は、人間の心というものをどのように形にするか、ということと大いに関係があります。私達一人ひとりが、違う方法で形にします。そして、人間の心は、おそらく自らを、共感、優しさ、柔軟さ、ここでいうのは受け身になるということではなく柔軟さ、といった性質として普遍的に表現します。
ですから、少しの間、自分自身のそのような部分に注意を向けてみてください。それはすぐ目の前にあります。それらの性質は、自分自身や自分の体験に対するアサーティブな親切さ、暖かさ、フレンドリーさとして現れてくると、言う方もいらっしゃるでしょう。とても現実的な方法で、私達は、一緒に取り組んでいく皆さんに、自分自身や自分の経験に対して、このような質を養うためにクラスに参加してください、とお願いしています。

もし私達がマインドフルネスをもう少し深く見るならば、2つの側面があります。一つは、しばしば道具としての側面と呼ばれるものです。それは、時間をかけて努力、発達するという意味で、スキルや能力の向上、に関係しています。おそらく、近代的な用語では、習得と学習いうことと関係があるといえるでしょう。
たとえば、私がペルシャ語を学ばなければならないとしたら、ゼロから学ぶことになります。とてもゆっくりと学ぶことになってしまい、おそらくうまく行かないとか習得するのは困難だと思うでしょう。ピアノを引けるようになるためには、ゆっくり学んで行きます。楽器を引けるようになるにはその前に音階を学ぶことになります。
これは、マインドフルネスを練習することと同じです。それ特有の進捗があり、時間が経つにつれ、人々は変化について報告してくれることがよくあります。もしあなたがマインドフルネスを実践しているのであれば、時間が経つにつれ、様々な変化が起きることを発見するでしょう。そのことはMBSR講師の成長においてそれを構築する様々な能力と同じです。皆さん、これらの能力について、時間とともにスキルが向上していきます。
そして、マインドフルネスの実践についてのもう一つの側面は、道具としてではないマインドフルネスです。何も習得するものもなければ、改善することもありません。なぜなら、それはすでに完全であるからです。そして、道具であるということは、道具でないということの中にあることがわかるでしょう。例えば、愛が自分の中になければ、どのようにして他者を愛することができるでしょうか。美が無いところで、どのように美を認めることができるでしょうか。人間としての自分のなかに光が無いところで、如何にして太陽の光のありがたみがわかるでしょうか。このことは数百年にRumiが言っていたことです。そこで、かれは二つの知性について話をしました。一つは習得されるもの、一つはすでに完全であるもの。
クラスに入っていって、すでに完成されているにも関わらず本人はそのことを知らない十数名の天才の前に自分が座っている、ということを知ることはどのようなものでしょうか?そのことを彼らに伝えることはできません。ただ私のことを信じてください、ということは言えません。私達の仕事は何かしらの方法で、時間をかけて、参加者自身に、すでに自分自身の中にある深さを理解してもらう手助けをすることだけです。
そのため、私は、ただそう信じるよりより詳しく知ろうと務めてはいるのですが、「MBSRまたはMBCTの中心的なリスクは、私達が道具でないことについて正しい判断ができなくなり、道具的なものが優位になることである」と書いたのです。

ですから、少し立ち止まって、次の質問について考えていただきたいと思います。
今の話を聞いて、ご自分の心の中でどのようなことを感じるでしょうか。私が言ったから、ではなく、ご自分にとってどうでしょうか?
この本当の意味は、私達の仕事は、生徒であることだ、ということです。ある種の学習、洞察、理解が得られるような方法で、全てもしくは多くの状況に対処することができるか、耳を傾け、行動し、観察します。私達は、酩酊しているようなものです。マインドフルネスは、私達が実際に素面で目が覚めていることを思い出させる力強いやり方で、普遍的な姿の自らを表現すると言って良いでしょう。
そして、より大事なことは、人間の心を養い、成長させることです。そのことが、マインドフルネスの核心的な特徴になります。なぜなら、そのことが「私自身」と呼ばれる現実には存在しないものをゆっくりと解体することと深い関係があるからです。ですから、私達は自我の中にあって自我を強めるようなあり方から、全ての人間は苦しんでいるということを認識することに転換し、全ての人間は自由で、開放される力を持ちます。
自らの持つ美しい光を世界に照らしてくれていることについて、皆さんに感謝したいと思います。世界には不確実さ、暗さ、恐怖がたくさんあることは皆さんご承知のとおりです。そうでないふりをすることには意味がありません。しかし、そのような中にあっても、私達には光で照らし、私達の間の断つことのできない紐帯を感じ、自らの内側にある深い資源を知り、触れる力があり、とても少数の極端なことを行う人により世界は変わってきました。極端、とは抜本的であるという意味です。人生におけるマインドフルネスというものの本質は根本に働きかけるようなものです。

私が大事にしている(イランの詩人である)Hafizの言葉で終わりにしたいと思います。イランの国土は、この人を通じて、世界に普遍的な言葉を与えました。彼は、とある詩の最後に、このようなことを言っています。

Hafizよ、強くありなさい。
人生の中で、失敗し、再びつかみ、登る、その場所で頑張りなさい。

それが、私達みんながここでやっていることです。
登ってくださってありがとうございます。お互いに手を伸ばして助け合いましょう。

Amir:Saki博士、ただ静かに座り、感じることを通じて登る方法を教えてくれてありがとうございます。生徒として、私があなたから学んだことは、恐れないということです。これは、私がトレーニングを受けているときに、あなたが私に教えてくれたことです。知らないこと、ただ存在している状態に安んじていること、こういったことを恐れないということです。そして、あなたが心や愛と呼んだもの、それらを通じてパワーを得ます。愛を通じて、知らないということの勇気を得ます。私は、このことが癒しになるということを科学が証明することを、いつも驚きの目で見ています。そして、(心理療法などを受ける)クライアントたちは、ただあることによって、自分自身が変化することにとても驚きます。

Amir:心の複雑さは、マインドフルネス講師としてのご自身の仕事にどのように影響をあたえていますか?例えば、軽く心が落ち込んでいる時など。完全に回復させることが必要でしょうか?もしくは、軽い気分の落ち込みは、自分自身の実践や教える取り組みを通じて解消されますか?

Saki:そうですね、時と場合によりますね。その気分の落ち込みや不安がとても強いときは、他の人と仕事をすることが難しくなります。また一方では、誰でも気分の落ち込み、悲しさ、不安、不確実さ、不安定さといったものを感じるものなので、気分の落ち込みを感じる時は教えるべきではない、というよりは、その不安や気分の落ち込み、不確実さにどう対処するか、そのことをあなたが知っていることが大事だと思います。
もし、自分の中のそのような状況や条件との関係を構築したとしたら、それが、心の知恵とよばれるものを発達させることになることがよくあります。自分自身の苦しみが、実は、自分やともに取り組む人を新しい道へ導く可能性を持っています。つまり、そのような苦しさというのは、あなたやあなたが教えることにとって、大きな役に立つものであるかもしれません。なぜなら、その事によってあなたは他者に対してより敏感になり、そのような状況や条件下での自分自身への対処が、他者にどう対処するかということをあなたに教えてくれるからです。
ですから、あなたは完全には治してしまう必要はありません。もしそうしなければならないとしたら、私達は何もやらないということになるでしょう。私達は、だれでも正常に歩けないのですから。

Amir:「痛みを持ちつづけましょう。それは、あなたが教える際に役に立ちます」といっていいでしょうか?

Saki:(笑って)「持ち続けよう」とは言いませんが、「もし持っているなら、それと一緒にあるようにしなさい」と言うでしょう。

Amir:著書”Healing Thyself”の中で、ギリシャ神話の傷ついた治癒者であるChironの例を挙げているのですが、彼は、自らの苦しみの故に、自分の患者とより結びつくことができます。

Saki:はい、まさにそのとおりです。これらの傷は、私達が他の人と接するときに本当に役に立ちます。これは、まさに私が以前言っていたことです。みずからのうちに共感が引き起こされる、優しさが引き起こされる、他者を理解する気持ちが湧いてくる、ということです。

Amir:Saki博士、私自身が、MBSRの講師養成トレーニングを受けていたと昔のことを思い出しました。MBSRの講師養成プログラムに参加する条件として、まず参加者になる必要がある、ということでした。そのとき、35人のいわゆる患者さんが自分の痛みや悩みについて話すのを聞いても、私は何も感じず、複雑な気持ちになりました。みんなが話している痛みを、私はなぜ感じないのだろうか?
そして、私はこのことをクラスの講師に話しました。彼女は、自分自身に心を開いた時にそのことがわかると教えてくれました。つまり、まず自分自身の傷から始めて、その後に他の人に心を開いていく、そういうことだと理解しました。

Saki:現実として、特にヘルスケアの専門家としては、自分自身をクライアントから切り離して考えるようにと私達は教えられてきました。なぜなら、それによってよりよくクライアントに接することができるという考えがあるからです。私の経験では、これは全くの逆です。もし、クライアントが体験していることのわずかなものでも自分の中に見つけることができるならば、より良く彼らの助けになることができます。
同じ内容ではないかもしれませんが、こういうことです。ある人がガンを患っていて、自分はそうではないかもしれません。しかし、私は何か他のことで苦しんだことありますか?はい、あります。私は依存症では無いかもしれません。しかし、依存の体験がありますか?はい、あります。それはどのようなものでしょうか?それは、自分の体、心、精神にどのような影響をあたえますか?そのことについて、自分で知っていることはなんですか?気づきは自分に何を教えてくれるでしょうか?
そして、その苦しみのところに行き、あなたが先程言ったように、「知らない」という状況を良しとすることくらいはできるでしょう。私は「どうやって最初の手がかりを掴むか」といったようなことを思うかもしれません。これが、まさにHafizが詩の中で言っていることです。2歩目、3歩目、4歩目のステップを知っている必要はありません。ただ、今ここにあって、最初の一歩を踏み出すリスクを取るだけでいいのです。私達の関係性が発展することにより、2歩目が見えてくるでしょう。

Amir:ストレスをもたらすくらいの過度な敏感さを持っているとすると、もしマインドフルネスの練習が過度な敏感さもたらすのであれば、練習の長さや回数を減らすべきでしょうか?練習を適切な量行うという意味で良いバランスを見つけるにはどうしたらよいでしょうか?

Saki:これらは全て重要な質問です。私が思うに、いくつかの方法で、マインドフルネスの練習は、私達の敏感さを増すことは事実で、そのことはクラスで起きることと同じようなことです。例えば、コースの最初の方で、「始める前より悪くなりました。このコースに参加することで気分が良くなると思っていたのですが、悪い方向に言っています」という人もいます。
それは、注意や気づきが高まることによって自らの内外の状況に対してより敏感になるという事実について述べているのです。起きていることによく気づくようになるので、不満を口にすることが度々あります。しかし、それについて何かを行う力はまだありません。これは、一般的な学びの一過程だと私には思えます。まず、混乱が起きます。そして、彼らの気づきが既存のシステムを動揺させます。これは、過去の私と、感じている今の私があるからです。その違いが、摩擦や不快感を引き起こすのです。
その時、どのように適切な投薬量を知るかという点で、先生としてのスキルが本当に大事になります。少なすぎず、多すぎず。多すぎると圧倒してしまいます。少なすぎると、変化が起きません。再統合される前に一旦解体される段階があるという意味で、それらは、錬金術のようなものです。
マインドフルネスを教え、学ぶ人として、あなたが言ったように、私達は、どのようにバランスのとれた量を見極めかという同じプロセスに関わります。これは、自分自身をよりよく理解していくことと関係しています。そして、先生と一緒に取り組むことが可能であるならば、先生がどのくらいの量が適当かの理解を助けてくれるので、それも役に立つでしょう。
自分を傷つけないよう、自分を押しのけないように気をつける必要があります。同時に、自分の練習を深く見つめ、それらが愛とやさしさにより動機づけられているかを知る必要があります。もし、押しのけようという気持ちが強いなら、力を緩める必要があります。
私達は、しばしば練習を手段として利用してしまう傾向にあります。なぜなら、何かを得たいと思うからです。そして、練習をすることに努力が必要である一方で、上手な努力の仕方とでも言えるものもあります。それは、物事をありのままに受け入れるか、それを押しのけようと力を入れるか、その程度が関わっています。
そして、練習を手段として見做すということに心当たりがあるなら、あなたは自分自身にこういうことを問いかける必要があります。
そんなに強く押しのけようとしているのは誰なのか?ブレークスルーを起こそうとしているのは誰なのか、いったい何に対して?何がやる気の源なのだろうか?
それらは必ずしも心地の良いものではありませんが、意味のある質問であり、私達が自分自身や人生をありのままに受け入れることの助けになります。
さて、そろそろ最後の質問になりそうですね、Amir。

Amir:これは私達にとって良い質問だと思います。最後に一番よいものをとっておきました。
恋に落ちる、とはどういうことでしょうか。

Saki:ええ、最後に一番いい質問が来ましたね!
そのことは、人類が地上に現れて以来、問い続けられてきました。そして、それは、私達の文化の中でとても特別に表現されてきました。通常、ロマンティックで、中毒性のあるもの、普通は私達が欲するものとして描かれます。それ自体、美しさ、価値、機能を持ち、とても素晴らしいものです。長くは続きませんけれども。少なくとも、特定の見え方としては継続しません。そして、常に他のところに探しに行くものというものではありません。それは一種の依存です。
私が思うに、愛はその中に多くの痛みを含んでいます。「恋に落ちている」と言うことができるということは、だれか他の人を自分に優先させるということを意味します。もしくは、他者へのいたわりが自分自身へのそれより大きくなることです。そしてある意味、死を表しています。その死とは単に隠喩としてのものではありません。なぜなら、そのことはいわゆる自己という概念が縮小することに関わっているからです。他者の喜びと痛みが自己の痛みと喜びよりも重要になります。
そして、そのことは、自我がゆっくりと解体されていくことを意味します。自我と他者の間のある種の分離は消滅します。そうして、私達は恋に落ちていることを知ります。なぜなら、ある意味で、私達は小さくなるように見えながら大きくなるからです。そして、そのことは受け取ることよりも与えることを始めるようになることを意味します。
これは終わりにふさわしいように感じられます。

Amir:これはスタートとしてもとても素晴らしいですね。自分の傷に初めてふれるということは、それがどれだけ心地よいものではなく痛みを伴うものだとしても、私達にとって恋に落ちるようなものです。そして、その瞬間、私達は以前より大きくなります。

Saki:そうですね、なぜなら、私達がすでにどれだけ大きいのか、に気づき始めるからです。(意味不明瞭)愛はただ生じ、知覚されます。

Amir:愛の増大(rising in love)、と言い表すのはどうですか?

Saki:はい、そう言おうと思っていました。

Amir:今日は私達の気づきを高めてくれてありがとうございます。20年前に、あなたから親切にしていただいたことから今日という日が迎えられました。そして、私達が、求められなくても親切さを忘れないことはとても驚くべきことです。ありがとうございました。

Saki:ありがとうございました。この旅を一緒に続けていきましょう。